あけましておめでとうございます。
この記事は大晦日のうちにアップすることを目指していたのですが、日付が変わってしまい、新年に突入してしまいました。

昨年は新型コロナウイルスが猛威を振るい、私たちの生活も大いに混乱しました。
この混乱はまだまだ続きそうですが、このような状況の中でこそ、人の人間性が垣間見えたりします。
まぁ、それについては後の方で書くとして、まずはタイトル通り「運命」と「宿命」について思うことを書きます。
まず「運命」とは過去の結果であり、行動や心がけ次第でどんどん良い方向に変えていけるはずなのです。
それに対して、先祖代々の「業」など、生まれる前から背負ってきて、変えることの出来ないものを「宿命」と言います。
そう考えると「宿命」って、ちょっとオカルト的であり、現実的に考えると根拠が無さそうな気がしますが、考えようによっては「遺伝子」に組み込まれている情報は、まさに「宿命」と言えるのではないでしょうか。
では私は、どんな宿命を背負って生まれてきたのでしょう?
先述した通り「宿命」とは先祖代々、そして最も強い影響は両親から受けると思います。
また、遺伝子で考えると「隔世遺伝」とも言われるように祖父母の存在が大きく関わっているような気がします。
もし私が宿命に一切逆らわずに生きてこれたら・・・
つまり、流れに逆らわず、必要以上の欲も持たず、両親の期待にもある程度応えながら生きてこれたら、私はそこそこ平均的な人生を歩めたかも知れません。
しかし、やはりそのような人生は、残念ながら考えられません。
両親はもちろん、祖父母、そして親戚を見渡しても私はかなり特殊な人間です。
まず「音楽」をやっているという時点で突然変異種です。
そして、私には、やはり「音楽」と関わらない人生など考えられないのです。
長年、生活のために続けている仕事が「宿命」に逆らわずにやっているものだとしたら、私にとって音楽は「運命」を切り開くためにやってきたものです。
そして、私の人生を振り返ってみると「運命」と「宿命」が激しくバトルした時期が数回ありました。
不思議なもので、音楽活動が充実しそうになると、仕事がとんでもなく忙しくなり、単に時間を奪われるだけでなく精神的に音楽に集中できない状況に追い込まれるのです。
では実際に起こった出来事を振り返ってみましょう。
まずは1990年代の初頭、私にとって初めてのバンドらしいバンドであり、当時はプロを目指すつもりで取り組んでいたバンドでの初ライブの3か月前くらいから仕事が忙しくなり始め、ライブの直前まで1か月以上休み無しになり、夜は毎晩日付が変わるまで残業で、リハも満足に出来ない状況に追い込まれました。
次は1990年代中頃、私のリーダーバンドでの初のライブの直前も約2か月休み無しになり、夜は毎晩日付が変わるまで残業という状況が続きました。
それ以降も大事なライブの直前に仕事の忙しい時期が重なるということは度々ありましたが、この時ばかりは「運命の悪戯か?」と思ったのが2012年から2013年の出来事です。
これは正しくは「宿命の悪戯」と言うべきかも知れません。
まず、少し遡って2011年は、非常に充実したライブ活動が出来たにも関わらず、そのライブに向けて気持ちを高めていく余裕の無い日々が続いておりました。
相変わらずライブの直前まで連日の残業に休日出勤というパターンにはまっておりました。
しかし2012年になると、何となく自分を取り巻く状況が変わり、目の前が開け、一段上のステージに上がろうとしているような気配を感じたのです。
その予感は2012年の秋にはっきりと姿を現しました。
フランスの某レーベルからCDをリリースするというオファーがあったのです。
このレーベルからは日本のプログレ界の大御所の方たちもCDをリリースされているので、そういった人々と形の上だけでも肩を並べさせてもらえるという喜びがありました。
ただし、マスター音源を完成させるまでの締め切りがあり、オファーから約半年という納期を決められました。
普通に音楽中心の生活をしていたら可能な納期でしたが、仕事と両立するにはかなり厳しい納期でした。
しかし、このようなチャンスを捨てたくないと思い、挑むことにしました。
そして、その直後からでした。
このレコーディング期間に合わせるように残業及び休日出勤必至の仕事を命じられたのです。
まず最初に命じられた仕事は金銭的に折り合いが付かなかったので流れました。
こんなことを言っては何ですが、ラッキーだと思いました。
そう思って安心していたら次は県の工事で、真冬の滋賀県北部の、主に山奥での仕事を命じられました。
県の仕事なので日曜は休めるだろうという安心感はありましたが、真冬の滋賀県北部での作業はまさに命がけでした。
朝は5時頃に家を出て、現地の雪の状態を確認して、必要なら除雪車を手配し、2mほどの雪が積もった山奥へ行って作業し、夜には会社へ帰って書類を作成して家には10時半頃に帰るという日々が約3か月続きました。
途中でタイミングが悪ければ雪崩に巻き込まれそうになったり、吹雪の中での作業中にテントが飛んでいった時には、八甲田山の北大路欣也さんになった気分でした。
そのような仕事の合間の日曜日を利用してレコーディングをしました。
人生の中で最も音楽に集中したい時期でしたが、どの程度集中出来ていたでしょうか?
こう言っては何ですが、この頃の自分の気持ちが思い出せません。
とにかくこんな状況でレコーディング出来ていたのが、ただただ不思議です。
さらにその翌年には連続出勤期間こそ1か月弱でしたが内容のキツさでは過去最凶レベルの仕事を任され、深夜に現場の駐車場で倒れました。
ただ、その時、幸いにもクッションになるものがある場所に倒れたので、怪我はしませんでした。
「あぁ、私はまだ生かされるんやなぁ」と思いました。
このようなことを書くと「仕事を辞めれば良かったのでは?」と言う方もおられるでしょう。
まったくその通りです。
しかし、私にはそのような思い切った行動をする勇気がありませんでした。
だから何事も中途半端でした。
ただ、なぜこのように音楽活動の充実期に仕事の繁忙期が重なってくるのでしょうか?
これを今、振り返ってみると、やはり「運命」と「宿命」がバトルを繰り広げているということだとしか思えません。
つまり、私が運命を切り開こうとすると宿命が邪魔をするのです。
そんな宿命なら捨ててしまえ!と言いたいところですが・・・
一つ、はっきり言えることは、もし私がバンド活動の充実期に仕事を捨てていたら、かなり高い確率で私は現在、この世にいなかったと思います。
結局、2017年に宿命に逆らわずにバンド活動を辞めましたが、その後は、いろんな膿を出すことが出来たと思います。
で、気が付けば体もボロボロになっており、自分でも気づいていないうちに心筋梗塞になっていたらしく、生きているのが不思議な状態だったそうです。
2017年にバンド活動を辞めて「宿命」に逆らわずに過ごしているうちに、2018の後半からは「運命」も好転してきたような気がしてきました。
やむを得ない事情とは言え、以前より時間的にも精神的にも余裕が出来たことで個人的な作曲活動や動画制作に力を入れることが出来ました。
地味な活動ではありますが、自分としては以前よりもクリエイティブな活動が出来ている気がしておりました。
このまま細々と穏やかに・・・
2019年の秋まではそのように思っていました。
しかし、2019年の秋に東京を訪れた時に気持ちが変わりました。
シンプルに「もっと楽しみたい!」と思ったのです。
以前のような高い目標を持つつもりはないけれど、もう一度ステージでライトを浴びて演奏したい!
それが実現したら東京で私にこのような気持ちにさせてくれた人に感謝して、元気な自分を見せたい!
そのように思いました。
それ以降は「復活」に向けての準備がスタートしました。
まず私に「復活」の望みがあるのか?これが問題でした。
その答えが出るのが2020年の6月でした。
もし、ここで復活の可能性が消えたら私は力を落とし、生きる意欲を失くすと思いました。
なので、結果が出る前に、何とかして完成させたいと思って作ったのが最新曲の「蒼い花」でした。
この曲には自分自身が復活したいという想いを込めました。
そして、もう一つ、天地真理ちゃんの「恋する夏の日」のメタルバージョンです。
自分自身にエネルギーが無くなったら真理ちゃんを応援する気力も失ってしまうかも知れません。
だから気力のあるうちに、真理ちゃんに若返ってもらいたいという想いを込めて作りました。
で、結果的に私に「復活」の望みはあるということになりました。
時間はかかりそうですが、日々大切に過ごし、運が良ければ2年くらいで復活できるかも?です。
ただ、ここから先は、本当に運だと思っています。
自分にその運があるのかが試されているのだと思っています。
先述した通り、私が前向きになったのは2019年の秋に東京を訪れた時でした。
以前のように高い志を持っているわけではありませんが「楽しみたい」というシンプルな気持ちが「復活したい」という思いに繋がったのですから、やはり人間にとって「楽しみたい」という気持ちがいかに大きな力になるのかということを身を以て実感しました。
ただ、この「楽しみたい」という気持ちによって復活を目指すということは、おそらく宿命に逆らう行動になるでしょう。
しかし、やはり「楽しみたい」という気持ちがあるからこそ人間は頑張れるのであり、それは人間にとって極めて根本的なことであり、それに気付くきっかけを東京で得られたということは、やはり私は何か強い力に導かれているのではないか?と思えたのです。
2020年の6月に「復活」の可能性を得られてからは、そのようなことを信じながら、かなりエネルギッシュに過ごしてきました。
ところが・・・

ここへきて、根本的に考え方を改めなければいけないような気持ちになってきました。
先述した通り、私は「楽しみたい」というシンプルな気持ちを原動力にして運命を切り開こうと思ったわけです。
つまり、再び人生を謳歌するために復活を目指したわけですが・・・
私はもしかしたら「宿命」のために復活させられるのではないか?
そのように思えてきたのです。
復活させられる・・・
つまり2019年の東京から現在まで、実は「宿命」の力に流されてきたような気がしてきたのです。
宿命の力とは・・・
「守護霊」というものが誰にでも存在すると言いますが、私は、ここ最近、この「守護霊」の存在を感じることが多いのです。
実は先月、思いがけない出来事がありました。
詳しくは書きませんが、私にとって「宿命」に負けず「運命」を切り開いて生きていく上での大きな心の支えを失いました。
この時、私は長い間見ていた夢が一気に覚めて、現実に引き戻された気がしました。
しかし、どういう訳か、その時、私は目の前の出来事に「逆らわない」ということを強く意識したのです。
本当は逆らいたかったのです。
将来のことも考え、自分の中で、いろいろと決意が固まりつつあった矢先のことでした。
なぜこのタイミングで?
衝撃的かつ不思議な展開でしたが、私がこの展開に「逆らわない」ということを意識して過ごすうちに、些細なラッキーが続くようになりました。
仕事で困っていた時に助けてもらえたり、家を出る直前に忘れ物に気付いたり等・・・
これらが守護霊のおかげだと言ったら、ちょっと危ない奴だと思われそうですが、もし私に守護霊がいたとしたら、私をどのように導こうとするでしょうか?
やはり音楽や娯楽を辞めさせ、仕事一本に励むように導くのではないでしょうか?
2019年の東京での思いが、まさかこのような展開に繋がっていくとは・・・
今度こそ明るい未来が待っている!
私は「楽しみたい」を原動力に、未来への道を切り開く!
そういうつもりだったのに、実はその先にあったのは・・・
これはもうホラーの王道パターンですね。
考えてみれば、まず、今のような状態で私を雇ってくれている会社には感謝しなければなりません。
両親にも、恩返ししなければいけません。
私が復活するには親の協力も必要になってきます。
金銭的な面では絶対に頼らないつもりなので、ここ1年以上、節約を続けていますが、それ以外の面で世話になることがいろいろあります。
本当は親には一切頼るつもりではなかったのですが、思いがけない展開によって、そうならざるを得なくなりました。
つまり、復活後の私には、もう音楽や娯楽が入り込む余地は無いのかも知れないのです。
また休日出勤に長時間残業が当たり前の日々に戻り、日曜日の予定も安心して入れられない日々が戻ってきて、それが死ぬまで続くのでしょうか・・・
このご時世、それでも幸せだと思うべきでしょうか・・・
つくづく思うのですが、中小企業はまさに社会の縮図であり、経営者層は旅行に行ったりして娯楽を楽しんでいますが、我々従業員は「仕事があるだけありがたいと思え」と言われます。
我々従業員がいなくなったら空っぽの箱になるということが分かっていないのでしょうか?
ここで、最初の方に書いた「(コロナ禍の)このような状況の中でこそ、人の人間性が垣間見えたりします。」という件についてですが、仕事関係の知り合いから、上司がこのようなことを言っていたと聞きました。
「うちの会社の誰か感染してほしいなぁ・・・そうしたら自分が一番にならなくて済むのに」
こんなことを考えているような人間とも関わらなければいけない場合もあるのです。
ちなみにその上司という人物は、外ではマスクをしていますが社内ではマスクをしていないそうです。
それにどういう意図があるのか?
まぁあまり考えたくもありません。
ちなみに私が働く業界では「わしらの若い頃はもっときつかった」とか「若い奴には最初にガツンといわさなあかん」とか、そういう悪い意味で昭和的な感覚が残っています。
これでは若い世代が育ちません。
育っても同じようなタイプが育つだけでしょう。
現場における休日出勤や残業は書類上減ることになるかも知れませんが、無駄な書類が増えることで表に出ない労働時間がますます増えていくでしょう。
このような業界で死ぬまで働くことが守護霊様のお導きなのでしょうか?
それは何とも分かりません。
ただ、復活までの期間、私には時間的、そして精神的な余裕があります。
この期間、単に作品を作るだけではなくスキルアップに大いに励みたいです。
2020年は「今のうちに出来ることを!」という気持ちで励んできましたが、2021年は「今のうちにスキルアップ!」をモットーに頑張ろうと思っております。
このスキルアップは音楽だけではなく、いろんな面でやっていきたいと思っています。
復活に向けて・・・

では最後に、私が25歳の時に作った曲を貼り付けます。
実はこの曲は以前にもアップしていましたが、動画を再編集してアップし直しました。
思えばこの曲を作った当時、私はまだ25歳の若者でしたが、当時なりに悔やんでも悔やみきれない想いなどがありました。
人生は常に新雪を踏みながら歩いていくようなものであり、歩んできた道にはくっきりと足跡が残ります。
でも、その新雪に残った足跡に、また新たな雪が降り積もってゆっくりと足跡が隠されていくように、辛い思い出や様々な想いもやがて浄化されていく・・・
そのような想いで作った曲でした。


では、たまたまこの記事を読んでくださった皆様、本年が素晴らしい一年になりますように!